長女は、
「お母さんは変わってるで。」
とよく言います。
「何が変わってるの?」
と聞きましても、大抵は
「他の家のお母さんはお母さんみたいじゃないで。」
と言うだけです。しかし、そういう長女も相当な変わり者です。そこで、
「よほど、あんたの方が変わってるのに、君には言われたなくないね。」
と言ってみましたら、横から主人が
「変わってるあんたから生まれてきたから、こいつも変わってるんやで。」
などと、余計なことを付け加えて来たりするわけです。
そこで、一度、もっと具体的に聞いてみました。すると、つまり、私のお母さんは今の流行に乗るようなことが極端に少ない。また、それに理解を示すこともほとんどない。新しいものより、古いものの方が価値が高いと言う。しかも、すぐに仏様だのお釈迦様だのといった話しを持ち出して、難しいことを言う。そして大抵最後には、「仏様は本当にいるんやで、馬鹿にしてると大変なことになるで」とか言ってくる。とにかく、そんなお母さんは私のお母さん以外に知らない。と言うわけです。
そう言えば、最近社会現象にまで発展いたしました「鬼滅の刃」ですが、我が家の子供たちもご多分に漏れず何度も何度も見ます。最初は、何なんだこのグロテスクなアニメはと思っておりましたけど、だんだんと慣れてくるもので、今や、私も普通に見てしまいます。長女が友達と映画を見に行ったのがうらやましい次女に懇願されて、次女と一緒に映画まで見に行ってしまいました。次女がすすり泣く声が響いており、少し心配しましたが、実は、私も少し泣いてしまいまして、ちょっと、時代劇っぽいので、私も見やすいのかなと思うのですが。
そんなわけで、家でアニメがかかっていた時、主人公が「自分は長男だから」と言って、奮闘する場面がありました。それを見て私は、ぐうたら長女に
「見ろ、彼は長男だからって頑張ってるやないか、お前も、『私は長女だから』って言って頑張りなさい!」
と言いましたら、
「鬼滅を見て、そんなこと言うお母さんいないで」
とまた、言われました。ついでに、
「鬼滅って熟語の文法としては不自然よな、多分、滅鬼の方が正しいよな。それに、さっき厄除の面って言ってたけど、それも文法的には除厄なはずやんな。難しい言葉、たくさん使う割には、ちょっと詰めが甘いねんな、それも良いところなのかもしれんけど。」
みたいなことを言ってしまったことがあったのですが、その時も、
「鬼滅見て、そんな感想言う人、他におらへんで、ほんまに変わってるわ。」
とか言うのです。無論、そのたびに「お前に言われたない」と問答になるのですが。
さて、先日、学会前の私が学会レジュメ作成のために本やら辞書やら積んでおりましたところ、長女がその中にあった『真言宗全書』というのと『弘法大師弟子全集』というのをチラッと開いて、
「お母さん、やっぱり変やな、こんなもんどないして読めるん?これは辞書なの?」
と言うのです。
「漢字しか書いてない。しかも変な文字がある。」
漢文体ですから、漢字しか書いていないのは当たり前です。それから、変な文字というのは、梵字のことです。我々としてみれば、これらを読めなければ話しにならないわけですが、娘からしますと変なのでしょう。
「それは辞書やない。昔のえらいお坊さんが書いて残してくれたものや。」
と言いましたら、「辞書以外にこんな漢字だらけの本あるん?意味わからん。」と言われました。読めない字が書いてあるのは辞書だけだとでも思っているのでしょうか?全く、教育の行き届いていないことで、お恥ずかしいです。しかし、そう言いながらも、最後に一言
「すごいな・・・。」
と言って、去って行きまして、人のことを変わっているとか変だとか言うわりに、多少認めてはいるのかな?と思いました。
ところで、変わっているというのは一体どういう事なのでしょう。仏教の感覚で言えば、そもそも、人はそれぞれ違った世界に生きています。人それぞれが全く同じ事をし、同じ事を思うことはありません。夫婦や親子であっても、考えていることや、やっていることは全く違いますね。これらの行為をひっくるめて業(ごう)と言いますが、人の行った業が因となり何らかの結果が導かれる。またそれを因として結果が導かれるというようなことを繰り返してそれぞれ個人の世界が成り立っていくのですから、他の人から見れば随分変わった人だと思っても、本人はそう思っていないことも多いでしょう。私のように・・・。そして、さらに他の人から見れば、その人も変わっていると思われていることがあるかもしれません。しかし、仏教ではこういうそれぞれの違いをそんなに重要視はしません。なぜなら、どのような立場の人であっても仏の世界から見れば、全く差がない、平等だからです。
また、密教という仏教の一形態には面白い考え方があります。この世にある人、物、あらゆる現象に至るまで、この宇宙は大日如来という仏であると言うのです。ですから、ちょっと変わり者のように見える、我が娘や私もこの宇宙そのものである大日如来を形成する要素の一つということになるわけで、やはり、仏の立場から見れば平等なのですね。
だから、多分、変わり者と言われるのを気にして、無理に個性を押しつぶす必要も、逆に個性的と言われたくて、変に個性を追い求める必要もないのでしょう。ありのままでいるだけで、実は重要な役目が備わってたりするのかもしれないのです。実際、私のことを散々、変わっていると馬鹿にする長女も私が梵字混じりの漢文を読むのを見て、つい「すごいな・・・。」と言ってしまったのです。私も先日、娘のダンスの発表会を見て、正直、「この人こんなに踊れたの?」とびっくりするシーンがありました。ダンス仲間の親御さん達にも褒めていただいて、あんな奴だけど、努力してる側面もあるのだなと少し、涙が出そうになりました。というわけで、娘も私も変わり者のまま、胸を張って堂々と生きていたりするのです。
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