もみじの永観堂、秋の寺宝展

ちょっと京都の情報を

さて、秋も深まって参りました。私が学芸員として関わらせていただいている京都・禅林寺、通称・永観堂は平安時代から紅葉の名所として知られています。今年は、早めの時期から紅葉の色づきがよく、とても綺麗ですよ。しかし、ここに乗せました写真は普段、私が過ごしている詰め所の2階から撮ってますので、通常では見られない角度かもしれません。

現在では、毎年、秋の紅葉の時期に、普段は展示していない寺宝を展示する寺宝展を開催し、紅葉とともに楽しんでもらっています。今年は、新型コロナのこともあり、中止も含めて検討したようでしたが、少し、規模を縮小し、あまり人が溜まらないような導線を確保して開催しております。今年は、インバウンドのお客様は少ないですが、日本人のお客様がたくさん、秋の京都を満喫しにいらしているようです。

そして、この寺宝展の展示テーマの提案や作品の選定、作品展示を担当しているのが、私です。今年は、禅林寺第十七世浄音上人(一二〇一~一二七一)の七五〇遠忌にちなみ、浄音上人ゆかりの寺宝を中心に展示いたしました。寺宝のバリエーションの多い永観堂ですから、規模を縮小したからこそ、これが、実現したと言えるかもしれません。永観堂に伝わる2幅の浄音上人像(南北朝時代/室町時代)や、二尊院の原本の写本であることがわかっている『七箇条御制誡』(室町・天文23〈1554〉年)、重要文化財の阿弥陀来迎図(鎌倉時代)、浄音上人直筆の書簡に記された証空上人の法語である『鎮勧用心』(鎌倉時代)などを展示しております。今回は出陳文化財の中から重要文化財の『当麻曼荼羅縁起』について、その伝来の背景を、少し想像をたくましくしてお話ししたいと思います。

禅林寺所蔵の『当麻曼荼羅縁起』は、奥書によりますと、道観証慧(一二二六~一二八五)が弘長二(一二六二)年十一月二十日に著したとされています。証慧とは、証空上人の高弟で、いわゆる西山四流を開いた四人のうちの一人です。そして、もちろん、この四人の中に浄音上人も数えられ、証慧上人は嵯峨義の、浄音上人は西谷義の祖として知られています。西谷義は言わずもがな、当山ならびに光明寺の西山浄土宗にて法灯が引き継がれておりますが、嵯峨義は残念ながら室町時代のはじめ頃には途絶えてしまったと考えられています。現在知られている証慧上人の著作は、たった二つであり、その教義をうかがい知ることは難しいのが現状です。しかし、その二つの著作のうちの一つが、この『当麻曼荼羅縁起』ということになります。浄音上人の方が年上ですが、証空上人のもと、同門として切磋琢磨したであろう証慧上人の遺品が、嵯峨義が途絶えていく中で、いつしか禅林寺に託されたことを考えますと、これまで守り伝えて来たことの重要性が感じられます。

この縁起には、奈良の当麻寺に伝わる(つづれ)(おり)の当麻曼荼羅制作の由来が説かれており、観音の化身である姫が染寺(奈良・石光寺(しゃっこうじ)の通称)で蓮糸を染め、当麻曼荼羅を織り成し、曼荼羅の奥義を阿弥陀の化身である尼僧から聞いて、最後に極楽往生を遂げるという内容で、京都の公文書系の由来と、奈良仏教における伝承を織り交ぜて成立したとされます。ところで、高野山の清浄心院には同じく「当麻曼荼羅縁起」という名の絵画(鎌倉時代中期・重要文化財)が伝わっています。実は、その絵の内容が今回ご紹介した『当麻曼荼羅縁起』に良く似ていて、あるいは参考にして描かれたのではないかと想像させられてしまうのです。しかも、清浄心院は法然上人が高野山に千日籠をした際の滞在地とも言われ、浄土宗との関わりが深かった可能性が考えられます。もしかすると、証慧上人の『当麻曼荼羅縁起』の影響が高野山まで及んでいたのかもしれないなんて想像いたしますと、ますます禅林寺がこの縁起を伝えたことの価値を思い知らされるようです。

紅葉とともに、寺宝もお楽しみいただきたいと思います。ライトアップもありますよ。是非、足をお運びください。

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