先日、ドライブに出かけておりましたところ、長女がある友人について、
「あいつ、マジで調子乗ってんねん。ちょっと頭イカれてんとちゃう。」
と、冗談のテンションではなく、本気で腹が立っている様子で言いはじめました。前もって謝りますが、長女は言葉遣いが非常に悪いです。いくら注意しても、一向に訂正される様子はございません。多少、お聞き苦しいかとも存じますが、臨場感を重視して、できるだけ、彼女の言葉遣いに近い調子でお届けいたします。申し訳ございません。
さて、話しを戻しまして、お相手の名誉のために、詳細のレポートは差し控えますが、なぜ、そう思ったのかを聞いてみますと、
「別に、自分も大してできてるわけやないのに、自分はすごいできるって勘違いしてんねん。それで、すごい態度デカなって、前からそんな感じやったけど、最近、さらひどなって来てんねん。見てると、めっちゃイラつく。」
「できるだけ喋らんようにしてるけど、謎に、からんでくることがあって、意味不明。」
などと、止めなければいくらでも悪口を言いそうな勢い。よほど、腹が立っているようです。
ところが、こういうことって大人でも良くありますよね。正直に言いますと、私自身、一時はそういう人間だったかもしれないと思う節もあります。それを思い返せば、とてもお恥ずかしいことです。
私は、腹を立てている様子の長女に
「ちなみに、そういう人を見ていて、もし、自分も同じようだったらと考えてみるとどう思う?」
と聞いてみました。当初は、“人の振り見て我が振り直せ”的な話しに持っていこうかと思ったわけです。
「ああ、そんなん、めっちゃ恥ずいわ。絶対、あんな風になりたないわ。」
というような返事が返ってきました。思いの他、冷静さを取り戻したようだったので、ついでにもう少し踏み込んだ話しをしてみることにしました。そこで、私は、
「それってな、かわいそうと思わへん?」
と聞いてみたのです。すると、
「は?なんで?どこが、かわいそうやねん。」
これは、再燃させてしまった様子。まあ、それはそれとして、こちらも熱く話しを続けます。
「だってな、その人は、自分の恥ずかしい姿に気づいてないんやで、それで、他の人がそれを見てどう思うかわかってないんやで、それってかわいそうやん。」
と続けますと、「確かに、そうかも…。」と少し考え始めました。さて、こうなったら、母は畳みかけますよ。
「そういうな、本当は、そのレベルまで到達してるわけではないのに、自分はできると勘違いして調子に乗ってしまうことを、仏教では増上慢って言うねん。これは、ものすごく強い煩悩の一つなんやで。」
「でもな、こういう煩悩を消すっていうのは、ものすごく大変なことなんや。たくさん修行をしないと消すことは中々できへん。ところが、お釈迦様はな、自分には、そいういう悪いところがあるな、ということに気づくことが大事やって言ってはるねん。」
「消すのは、難しいけどな、自分の悪いところを知っていることで、それを少し抑えることはできるやろ。もし、抑えられずに表に出てしまっても、あとから反省することもできる。でも、あんたの話しでは、その調子に乗っているように見える人は、自分が調子に乗っている増上慢であるということには気づいていないように聞こえるで。」
この辺りで、急にピンと来たように長女が
「そうや、全然気づいてないと思うで、ずっと調子乗りっぱなしや。」
と発言しました。
「でもな、実際はできてないのに、できてると思ってるってことは、いつかポキッと折れる可能性が高いでしょう。それは、かわいそうなことやろ、しかもそれに気づいてないなんてなおさらかわいそうや、だから、今後、同じようなことで、腹が立つようなこととがあっても、『自分の増上慢に気づいてないんやな、かわいそうやな』と思っといたらええねん。」
ここまで、来ますと、長女の怒りはすっかり忘れ去られて、
「ほんまやな、めっちゃかわいそうな奴やったんやな。」
と、もはや、哀れみはじめました。そこで、母はついでに本人の話しをしときました。
「っていう、あんたにだって悪いところはたくさんあるやろ、そうやってすぐに腹を立てるところだって悪いところや。でも、そういう悪いところが自分にはあることを知っているのと知っていないのとでは大違いやって、お釈迦様は言ってはるわけや。自分の悪いところにきづいておくことが大事やで。」
我が家の教育で唯一、成功しているのは、もはや、思春期を迎えようかという長女でさえ、お釈迦様は間違わへんと思っているところでありまして、母がそう言っているのではなくて、お釈迦様が言っているのだと説明しますと、えらく納得する傾向があるわけです。おかげさまで、
「確かに、私には悪いところはいっぱいあるし、全然抑えられないけど、知っていることが大事なんやな。」
と納得した様子です。もちろん、最低限、抑えられるようにならないと意味ないだろうとは思いますが、彼女にはまだ段階が早すぎるかな。せっかく、理解した様子だったので、これ以上は言いませんでした。そして長女は最後に一言、
「お母さんってもしかして、そいういうことをブログに書いてるん?」
と言われまして…。まあ、その通りです。君のご指摘の通り書かせていただきましたよ。
さて、最後に、増上慢について少し説明しようかと思います。増上慢というのは、もともと、まだ、さとりを得ていないのに、自分は既にさとったと思い込んで、おごり高ぶることを言います。以前も少し紹介した「慢」という煩悩には、四慢とか七慢とかいって、何種類かあるのですが、その中の一つということになります。さとりに関することでなくても、いわゆる「うぬぼれ」のような状態を指して言うことができます。しかし、この慢という種類の煩悩って、取り除くのが至難の業みたいなんですよね。自分自身も心して気を付けたいところです。(慢という煩悩については真実の平等もご参照ください。)
ちなみに、運転していたのは僧侶である主人でありました。私の話しに、「そうや、そのとおりや!」「よく覚えておけ!」と全面的に肯定的な相槌を入れて、大いに話しを盛り上げてくれました。ありがとう!!
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