お釈迦様のお悟りというのは、とても興味深いものです。非常におだやかで心静かな瞬間を感じ取られたのかなと勝手に想像しています。出家されたお釈迦様は6年の間、大変厳しい苦行をされていたようですが、生死をさまようような激しい苦行をいくら続けてもお悟りに到達することはないことを理解し、川で沐浴をしていたそうです。その時、断食修行の影響で、骨と皮だけのように痩せたお釈迦様にスジャータという女性が乳がゆを施されました。これを口にして元気を取り戻したお釈迦様は長い瞑想に入られお悟りを得られました。この時にお釈迦様は面白いことに気づかれたようです。それは、過度の快楽ばかりでは良くないけれど、苦行のし過ぎも良くないということです。なんでもやりすぎは良くないということに気づかれたのです。これが、仏教用語で言うところの「中道」というものです。
中道の実際の意味は両極端にある二つのものの対立を離れていることであり、偏りのない中正な状態を指します。
この「中道」という考え方は、実生活でも心のバランスを保つために効果的であると思います。実際の意味合いにぴったりと合致するかどうかは、何とも言えませんが、とにかくどちらかに偏らないようにするのが大切なのだと考えています。これは、特に子供と相対する時には有効です。
まずは、子供を怒ったり、甘やかしたりということです。つまり、怒りすぎても良くないし、甘やかしすぎても良くない。ということで、怒るべき時はしっかり怒るけど、甘えてきた時は思いっきり受け入れてあげようというのが、この場合の私の中道です。とは言え、毎度登場する長女に関しては、圧倒的に怒らなければならないことが多いので、ほぼ怒っておりますが、いまだ!という時には、思いっきり甘えさせています。良く、わからないのですが、この長女は良く「私、お母さん、大好き。なんでこんなに大好きなんやろう。どうしたら良いかわからへんくらい大好き。」などと面と向かって言います。「何言ってるんだろう??」という感じですが、多分、これが「今、私はお母さんに甘えたいですよ!」のサインであると思われます。状況によって、ちょうど中間を取るのは難しいことがほとんどですから、とにかく、両極端のどちらかに寄らないようにすることを目指しております。ですから、どちらかと言うと怒ってばかりに寄っているかな?くらいは良しとしています。
あまりに、悪いことをしでかして、叱っている最中でないかぎり、このサインが出た日は、ちょっと甘えさせてあげることにしています。
また、子供との関わり方には、ちょうどよい距離感というのが大切になってくるのかもしれないと思います。近すぎても離れすぎてもダメということです。とは言え、私自身がちょうどよい距離感を保てているのかどうかは、何とも言えませんが。これに関しても、とにかく両極端に寄らないようにすることを目指しています。四六時中べったりとついて監視しているのも良くないですし、一切ほったらかしなのももちろん良くない。適度に放置し、適度に監視する。そんな状態が私の目標です。
これは、子供の適度な自立を促すのにも効果的です。私は、仕事をしていますので、学校から帰ってきた子供を「おかえり」と迎えてあげられないのはとても心苦しいのです。しかし、今では、学校から帰ると、自分で準備をして、自分で電車に乗り、ダンスのレッスンに行くようになりました。3年生の時に、行きたいと言ったレッスンが平日の夕方で、私が仕事の日は送ることができない時間でしたので、自分で行けないならレッスンは受けられないよと伝えたのがきっかけで、電車で行く練習をはじめ、4年生になると、私が三女を妊娠したので、なおさら、送り迎えが億劫になり、一人で行かないならダンスは止めてほしいと伝えました。すると、ほぼ、一人で行くようになりました。
また、少し大きくなってくれば、人間関係にも色々と問題が発生することもあります。こういう時は、できるだけ具体的にアドバイスをしつつも、自分で解決できるように促すことを目指したいと思っています。ですから、時々、「お母さんから言ってよ」みたいなことを言われることがありますが、それは最後の手段として、ほぼ、相手や先生などに私から人間関係についての相談をしたことはありません(過去、1、2回くらい、あまりにひどいと感じた時は先生に一応伝えたことはありましたが)。そして、最後には、何があってもお母さんはあなたの味方です。と伝えます。いつも一緒に付いていてあげるわけではないし、ほとんど手も出さないけど、いつも味方ではあり続けること、これが、今のところ私が子供との距離感に設定している中道です。もちろん、諸行無常ですから、状況は刻一刻と変化します。ところが、中道であるからこそ、変化には柔軟に対応することができます。これが、中道の良いところです。つまり、両極端を避けることを目指しますから、両極端にさえ寄らなければ、その間で、状況にあったちょうどよいところを見つけることができるのではないかと思うのです。
ちょうどよい塩梅を保つのは実はとても難しいことだと思いますが、両極端に寄らないという中道の考え方がこれをある程度、可能にしてくれる気はしています。
お釈迦様はこの中道をお琴の名手の方に説明する時、お琴の弦に例えられました。
お琴の弦は張りすぎていても、緩すぎても良い音が出ません。張りすぎず、緩すぎない、ちょうど良い度合いを保つと良い音色を奏でるのです。ちょうどよい度合いを保つことが大切なのです。
親子もちょうどよい見守りと距離感を保つことで良い音色が奏でられるものなのかもしれません。
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