さて、前回の記事のようなエピソードが重なり、「周囲の意見に振り回され、同じようにしようとするのではなく、この子にはこの子にあった方法を行えば良いのだな」と気づかされ、対機説法の意味を実践的に思い知らされていくこととなったわけです。ところが、そこで、もう一つ大きな壁にぶち当たることが多いのでした。それが、「この子に合った方法が私にはわからない」ということです。私は残念なことにお釈迦様ではありませんから、そんなことはわからないわけです。今は少しましになってきたのですが、一時は何を言っても、思いつく限りの方法を試しても全く響かない長女に、日々、悩まされ、どうにもならない状態が度々、続いておりました。そんな時にいつも私を救ってくれるのが諸行無常の考え方です。
諸行無常…すべてのものはそのままとどまっているということは無く、常に変化しているということ。つまり、どのようなものごとであっても、いつまでも同じ状態のままでいることはないということですね。
とくに大変な気持ちになった時期が何回かありますが、その一つが、長女が小学生に上がった時でした。小学生になって、お世話になった学童が全く合わなかったのが原因です。
さて、我が家の3姉妹は代々、あるお寺の保育園に預けさせていただいております。この保育園がなんとも素晴らしいことに、集団教育では中々難しいであろう対機説法型の仏教保育を心がけておられる保育園なのです。これが、変わり者の長女にとってはなんとも居心地の良い生活だったようです。たとえば、こちらの保育園では年少組に上がった時、自分で手を洗って拭くために、タオルかけに個々のタオルをかけておくようになります。この時、タオル掛けは上の段が男の子、下の段が女の子という配置で、それぞれのタオルをかける場所に自身のマークを張り付けてあるのです。これについて、おそらく誰も疑問を持つようなことはなく、もちろん私もなんとも思わず、女の子の段の長女のマークのところにタオルを引っかけていました。ところが、ある日、長女のタオルかけの位置が変わっていたのです。上の段つまり男の子のならびの一番端っこに移動していたのです。たまたま、そこにいらっしゃった担任の先生に「場所が移動しているのですが、これで良いのですか?」とうかがいました。するとその先生が以下のように説明してくださいました。
我が長女が、「どうして私のタオルかけは下の段なの?」と聞いてきた。そこで、「男の子は上で女の子は下の段にしましたよ。」と説明してくれました。すると「どうして女の子は下の段にしたの?」とまた聞いたそうです。それには特に理由はなくて、例年そうしているから、そうしただけだったということで、そのように説明すると、「理由がないなら私は上の段が良い。上の段に変えてくれ!」と主張してきたそうです。
そして、この保育園のすごいところはここからです。長女の主張を受けて先生は本当に長女のタオルかけの位置を上の段に移動させてくれたのです。おそらくこの時、保育園の先生はうちの長女に合わせて、この子の場合は移動させてあげた方が納得するだろうなと考え、そうしてくださったのです。長女はそのまま1年間女の子で唯一、上の段のタオル掛けを使わせてもらいました。普通であれば、「これは決まりだから、あなたの言うことだけを聞くわけにはいきませんよ。」と言われてしまいそうなところです。実に仏教的な保育方法だと感心した瞬間の一つでした。
少し、話しがそれましたが、このような素晴らしい保育園に通っていたおかげか、変わり者の長女も大変のびのびと育ったわけです。さて、いざ、1年生になりました。私も仕事をしておりますので、学童保育というところに預けることになったわけです。今考えますと、もう少し下調べをするべきでしたが、保育園に比べて学童というのは選択肢が限られていることもあり、一番、立地の良い児童館に預けることにいたしました。ところが、ここが、長女にとっては地獄のように合わない空間だったようです。これに嫌気がさした長女はある時、学校の先生には学童に行くと言い、同じ学童の友達には、今日は家に帰る日だと言って、どこかに逃亡してしまったのです。いつまでたっても長女が学童に現れなかったため、学童が学校に電話をしたようです。学校としては学童に行ったはずだったので、行方不明ということで、私に電話がかかってきました。驚いて学校に出向きましたら、長女は近所の公園で先生に見つかって学校に強制帰還させられていました。ちなみに、彼女はこれを何回も繰り返したもので、そのたびに仕事を早退し、探し回り、学校にも呼び出されお叱りを受け、近所の方々にもご迷惑をかけ、何を言っても言うことを聞かない長女に本当に悩まされました。「1年生の壁」という言葉を聞いたことがありましたが、まさにその状態でした。しばらくして、なんとか学童から逃亡することはなくなりましたが、一時期、本当に冷や冷やといたしました。ちなみに、それでも、どうしても学童を好きになれなかった長女は、本来であれば3年生まで行くところを2年生まででやめてしまいました。
この時だけではありませんが、本当にどうすればよいか、わからなくなることが多々あります。その子に合った方法を探そうとしても、全く糸口がつかめないというようなことは少なくありません。そんな時こそ、諸行無常なのです。諸行無常というのは、色々な意味に捉えられます。平家物語の影響もあってか、とかく虚無的なイメージに捉えられがちな言葉かもしれません。ところが、特にそういうわけではありません。諸行つまり世の中のすべての事柄は、無常つまり同じ状態ではとどまっていないという意味です。ですから、もちろん、今の幸せはいつまでも続かないかもしれないという意味にも捉えられますが、今の辛さもいつまでも続くわけではないと捉えることができます。子供もいつまでも子供でいてくれるわけではないんですよね。成長すれば、それなりにどんなわからず屋でも変化は出てくることでしょう。だから、今、どうにもならなくても、ずっとそのままということはあり得ないのだろうと思うのです。なぜなら、諸行無常だからです。そう思って問題を一旦スルーするのです。心を追い込まずに済ませる方法ですね。
まだまだ、問題が山積している長女ですが、最近では徐々に破天荒な行動が減ってきました。特に三女が生まれてからは、あんなに嫌いだった宿題もとかくやるようになってきました。三女の存在が長女の心に新たな何かを生んだようです。まさに、諸行無常を目の当たりにさせてもらえて、妙に納得いたした次第です。本当に仏教は実生活に即した哲学ですよね。
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